[ 終 章 ]

新しい地球に向けて




≠フ反対側にあるものは何でしょうか?

 それは
≠ナす。

 しかし果たして闇は存在するのでしょうか?
 なぜこのようなことを問うのかというと、私たちは闇を見ることがないのに、さも闇が存在しているかのように思い、語っているからです。

 
実は、私たちは光を見ることはできても、闇を見ることはできないのです。

 光は実在でも、闇は実在ではなく幻想だからです。
 闇とは光がない状態を言います。闇がある、のではなくて、光がない状態を闇≠ニ呼んでいるのです。

 しかしもしも、この世の四方八方が一日中光で一杯であったら、闇は認識できません。闇を認識できなければ、光があるということも分からないのです。光の存在とその素晴らしさを知るために、幻想としての闇が存在しているともいえるのです。

≠フ反対側にあるものは何でしょうか?
 それは
恐れ ≠ナす。
 恐れとは
自己への執着≠ニも言えます。
 私たちが死を恐れるとき、経験していない死を恐れるのではなく、私たちがもっている肉体や家族や財産や、平和な日々を失うことを恐れているのです。
 私たちは体験していないものに対して恐れを抱くことはできないのです。ですから(前世の記憶から恐れを感じることはあっても)現在意識が明確に死に対して恐れを抱くということはできないのです。
 自分が価値を認めたものを無くすことに対する執着心が死に対する恐れを誘引しているのです。

 闇が実在ではなく光のない状態を闇と呼ぶように、愛と恐怖の関係も同じで、恐怖は愛のない状態によって感じる心の状態なのです。
 光≠ェ幻想としての闇≠作ることで認識されたように、私たちは愛≠知るために恐れ≠感じることを選択したのです。愛と反対側にある恐れを体験することによって、より深く愛を知ることができるからです。
 そのためにも私たちは一体ではない状態の個≠ニなったのです。私たちが分裂したときに、「私は唯一の生命」として存在していたことを一度、無意識の中に置き忘れることを選択したのです。完全に置き去りにするのではなく、無意識≠フ中に置いてあるのです。

 もしも私たちが「唯一の私」を体現した「自他一体」を初めから意識下≠ナ理解していたとしたら、私たちは元々一体であったということをしっかりと知っていたということになります。これは思いやりの方向、愛の方向を初めからしっかりと向いているということになります。しかしそれでは執着をもち、自他分離の恐怖心を体験する中で、私たちが宇宙の分離以前より愛の深い状態に進化するという環境設定には不充分だったのです。
 そこで私たちは既に一体であるという記憶を一度忘れる必要があったのです。しかしそれは命綱としてそれぞれの中に深く埋め込まれ、いつかそれを思い出すようにと、DNAにはしっかりと設定されていたと思われるのです。
 そのときがまさに今=\― 21世紀のはじめなのです。

 私たちが自分を知るために自らを分割したとき、再び神の元に合一するときは「全体としての私」に成長をもたらすことを約束しました。愛とは反対の方向にある恐怖を経験して、恐怖を超越するという運動の過程で、様々のエネルギーを経験したり、蓄えたり、昇華したりしながら、徐々に自分を思い出し、意識を進化させるという神の計画に同意したのです。
 そこで実際に計画を実行するにあたり、恐れを感じるには執着心が必要になります。ものに執着するためにはエネルギーを溜めたり奪ったりしようという欲や、自分だけを守るというエゴが必要でした。
 この学びの材料を得るために私たちの原型(アダムとイヴ)はリンゴを食したのです。
 それは必然のことだったのです。

 そのほかにも私たちは様々な意識をDNAを通じて取り入れてきました。たとえば性格の多くはDNAを経由していると考えます。そうでなければ、親子や家族の性格が他人に比べて似ていることの説明がつきません。また、民族がもつ民族性(集合意識にも関与)、なども遺伝子によって伝えられているという考えには、多くの方が納得されるのではないでしょうか(もちろん、経験によって新たなる性格のエネルギーを作り出したり、これに魂の想いや様々の霊的存在の想いがエネルギーとして関与してきたりして、トータルな性格は形成されるのですが・・・・)。

 いずれにしましても、大脳によって働くマインド≠ネどもそうなのですが、三次元の肉体を経由して遺伝子が運んでくる意識は実在とはいい難いのです。
 すなわち愛は実在でも(愛は遺伝しない)、遺伝子の作用を大きく受けている恐怖心は作り出された幻想なのです。また愛それ自体には本来、個性はないものと考えます(たとえば母性愛は、愛に母性という本能が加味され個性をもったもの)。

 愛以外のものの多くは、本能であったり、人間が作り出したエネルギーとしての念や意識です。心にあるこの幻想は恐怖心だけではなく、様々な意識のエネルギーとして人に取り憑いたりもしています。ですから、悪人であっても、人間が悪なのではなく、悪の霊的存在に心を奪われてその意のままに操られているということです。 それを映画で人工知能に比喩したのが「マトリックス」です。
 また、人にはいろいろな役割があるので、人を表面的な性格で評価したり、簡単に人を恨んだりしてもいけないし、自分のエゴを嫌って蓋(ふた)をしてもいけないのです。しっかりとそのエネルギーを視る必要があります。

 むかし初対面の女性が私に、「私は人格を判断するのに怒りを尺度にしているのよ」と言いました。まだ私が短気な性格であると知らないだろう彼女は私に「本物の人間は怒らないものよ」と言うのです。それでは気の短い私などは本物から遥か遠く離れてしまいます。
 私たちは表面的な意識の現われで人を判断しがちですが、人間の意識は本当に複雑で、人間の本質と心の清らかさは必ずしも一致しているとは限らないのです。人間の本質の格が高い人は必ず心も洗われているとは限らないし、逆にきれいな心をもっていると思えても、本質はまだ若い場合があるということです。

 人間の本質が自らを高めるためには、本質は清らかな心ではなく最悪の意識環境を選択するかも知れないのです。なぜならば、幸福な家庭や社会環境に生まれる本質が自らを高めるためには、エゴと波長を合わせる多くの遺伝子をもつ肉体を選択し、自らの中に同調してくる霊的存在までを引き入れ、自らの中のエゴと戦いながら、自らと地球を清め高める道を選択するかも知れないからです。
 逆にきれいな心に生まれることとなった本質は、そのハンデ(学び)の設定を家庭環境や身体環境に求め生きることもあると考えられるわけです。

 私たちは体や脳に障害を持つ人を「ハンディキャッパー」と呼んでいます。
 しかし本当にそうなのでしょうか。
 むしろ逆に考えることだってできるのです。
 彼らハンディキャッパーは、実は魂の次元が高いので困難な環境であっても魂を磨けるのであって、私たち健常者のほうが魂の格が低く、健康な肉体というハンディを与えられているという考えもできるのです。
 もちろん使命が厳しいがために健康な体と鮮明な脳を与えられている、という場合もあります。
 しかし現代で頭が良い悪いというのは本来記憶力の問題で、これは脳という物質の機能が優れているということで、霊格とは関係ありません。「理」は人それぞれの学びの目的によって変わります。
 すべては人それぞれであり、表面からは人のことは判らないのです。

 こういった譬えはいくらでも挙げることができるのですが、これは宇宙の秘密の場合が多いのです。このような秘密の真理が宇宙には一杯です。 というよりも、真理は本来、そのほとんどが秘密なのです。
 なぜならば、真理は一人ひとり異なるからです。自分にとっての真理も、他人にとっては真理とならず、自分の真理を他人に伝えると道を誤らせることにもなりかねないのです。ですから、自己を確立させることが必須となるのです。自分の中の光から自分だけの真理の訪れを待たねばならないのです。
 この未知の秘密を観じるには、既知の知識である既成概念≠ゥら離れる必要があります。この未知の秘密こそ他人には分からない、自分だけに必要な真理≠ネのです。それは思考とか知識を駆使して論理で探しても見つからないのです。むしろ思考が止まったときにのみ、
それは真理の側から歩み寄ってくるものなのです。未知からの贈り物として。
 このような性格をもつ真理を、一人ひとりが自分を確立することで自ら理解しながら、新しい地球の秩序は創られていくのだと思います


 新しい地球の秩序は、今の地球の秩序とはまったく異なるでしよう。
 現在、この世の多くの組織のほとんどは強制力を有するヒエラルキーで成り立っています。新しい地球にもヒエラルキーは存在するでしょうが、このような強制力で組織は運営されるものではありません。眉間にシワを寄せて、辛い思いや悲壮感をもって人が生きていくということはこれからの地球の生き方ではないと、私ははっきりと感じ、断言することができるのです。

 たとえば国の秩序について言えば、現在、日本が自由主義国家で民主主義国家であるとは言っても、それは形だけの自由であり、民主主義なのです。ユートピアである新しい地球の真の民主主義とは程遠いのです。
 現代の民主主義は、言ってみれば多数決による法の強制力で秩序を保っている法治国家にしか過ぎないのです。これは真の自由とも、真の民主とも言えません。新しい地球の民主主義は100%の合意で成り立ちます。 しかも投票などなくして。
 また企業にしても、今の企業は社長がトップにいて、役員がいて部長がいて・・・・ というような上下関係にあり、従業員のやりたくないことでも命令体系から命令が下されるというようなヒエラルキーの中で秩序を保っています。その秩序は命令や辞令の強制にほかならないのです。そこには常に不自由があり、画一的で一方的な教育・指導が為されています。それは本当に人権を重んじた体制と言えるのでしょうか?

 否応なしの強制力をもつ人為的な秩序で運営されている限り、そこはユートピアとは呼べないのです。真の秩序は、嫌々従わなければならないという決まり事の中にはないのです。
 新しい地球の秩序には強制力は存在せず、何の不自由もないのです。そこには誠の自由があります。夢ではなく実現します。二〜三年後というわけにはいかないでしょうが、50年先というような遠い将来の話でもないでしょう。それも私たちの心の変化次第ですが、多分、それはこの本を手にした人のほとんどが(一人ひとりの心の変化次第であり全員が行けるとは限らないでしょうが・・・・)実際に新しい地球を体験することができるぐらいに近い将来でしょう。

 一九九九年の大予言の悪夢は回避できたものの、新しい地球への生みの苦しみの到来は、やはり覚悟しなければならないでしょう。
 新しい地球が夢のまた夢と思われるほど、そのギャップが大きければ大きいほどに、その成就に至る道の艱難も大きなものとして待ち受けています。それがどの程度のものになるのかは私には具体的には分かりませんが、それも私たち次第ということだけは間違いのないところでしょう。

 誠の自由のあるユートピアは、私たち一人ひとりが「創造とは何か」ということを真に理解することで実現していくことでしょう。それを創るためには、現実の秩序体系にこだわってはいけないのです。現実社会では叶わなかった調和を作ろうとしたときに、それまでの社会
の秩序体系に縛られて創造を開始する、ということ自体がこだわりなのです。
社会の調和を作るには難しい既存の政治学や社会学を学ぶ必要もありません。既存の政治学や社会学では平和を作れなかった現実を知る必要があります。やればできるという創造の力を信じ、あるがままの自分に基づいて行動すればいいのです。むしろ既存の学びや概念を取り払わなければ新しい時代へ向かうための真理はやって来ないのです。
 するべきことは、そういう未来の秩序を、ああでもないこうでもないと理屈をこねて考えて社会を変えることではないのです。初めに秩序ありきではないからです。

 人間が生きるには、いまの社会構造はあまりにも複雑になり過ぎています。
 今するべき最も重要なことは、私たち一人ひとりの心が変わることなのです。それなくして明るい未来の秩序も観えてこないのです。
 そして「新しい地球に生きようと意図している自分が今ここにいる」ことの事実を認め、その理(わけ)を知り、自分の才能を信じて、自分に正直に、勇気をもって生きることです。それなくして社会は変わらないのです。人が人と自分との複雑な関係を絶ち、単純明快に自他一体となるように生まれ変わらなければ、社会の秩序も単純明快な方向に生まれ変わっていかないのです。

 私たちはよく「みんなで協力し合えば良いアイディアも生まれて・・・・」と言いますが、一人ひとりが“自分の枠内”のみでアイデイアを考えて、何かの意図をもって行動しようとしてもそれは単に個に対する依存にしか過ぎません。それでは自分を超えることはできず、良い方向には物事は運びません。
 協力とは個人の意図ではなく神の意図に基づいた意思、自他一体の次元から役割として発動された「共同創造(霊的強力)」という形を取らなければ真の協力とはならず、物事はなかなか良い方向へと進まないのです。

 私たち光の子に苦しみが残っているとしたならば、それは既に存在している純粋で無垢な、他との協力体制にある本当の私になっていないからにほかなりません。
 私自身も含め、そういう心の変化を体現できるよう、光り溢れる新しい地球の実現に向けて、心を洗いエゴを取り除き、意識を高めていきたいものです。



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